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小田井用水について

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祝

「小田井用水路」世界かんがい施設遺産登録決定

 

登録証

登録証 (左)元本  (右)日本語訳

世界かんがい施設遺産とは?

  干ばつ常襲地帯へ水を運べ。紀の川北筋を潤す大動脈。小田井用水

現在、紀の川の北側一帯には多くの水田が広がり、県内有数の田園地帯となっています。しかし、かつてはたびたび干ばつに襲われ、「月夜にやける」(月夜でもかわいてしまう)と言われるほど水の便が悪い土地でした。転機が訪れたのは江戸時代です。現在の橋本市から岩出市まで、紀の川の水を運ぶ大土木工事が行われたのです。紀の川北筋の農地を潤す大動脈・小田井用水の開発です。

現在の龍之渡井(空撮)

現在の龍之渡井(空撮)

干ばつ常襲地帯へ水を運べ

河岸段丘を開発せよ

橋本市から和歌山市に至る紀の川北岸の地域が、古くから干ばつに襲われやすかったことには理由があります。一帯は紀の川の流れが生み出した河岸段丘で、直接水を引くには土地の標高が高く、また溜め池だけでは水量が不足でした。 その問題を解決し、紀の川の豊かな流れを水源とする用水の開発が行われたのは元禄期です。まずは元禄13年(1700)、藤崎井(現紀の川市藤崎)を取水口とし、和歌山市東部に至る藤崎井用水が完成しました。藩命により、その開削に取り組んだのは、「治水の神様」と呼ばれる大畑才蔵(おおはたさいぞう)です。 続いて宝永4年(1707)には小田井用水の開削工事を開始しました。橋本市高野口町から紀の川市名手市場にかけての第一期工事を一年八ヶ月で完了させました。取水口は高野口町小田です。藤崎井よりもはるか上流にあり、より複雑な地形を通す難工事でした。

精密な「工事設計図」

龍之渡井の改修工事

龍之渡井の改修工事

それまでは木製だった通水橋・龍之渡井は大正8年(1919年)に近代化され、レンガ・石張り造りに改修されました。

段丘に水を引くためには、標高の高い上流に取水口を求めなければなりません。その結果、第一期工事の区間は約21㎞となり、第二、三期の工事を経て、総延長は32・5㎞に及びました。それほど遠くから水を引くためには、正確な「設計図」が必要でした。 才蔵が記した御用日記『才蔵日記』には、土地の高低差の正確な測量結果にもとづいた工事の指示書が残されています。それは、開削すべき水路の高さ、幅、勾配などが約100m単位で示された精密なもので、現在の土木工事にも通じるような「設計図」となっています。 土木工事には各地区の農家が協力しました。わずか二年足らずで第一期工事を完成させることができたのは、この設計図に従い、各地で一斉に作業を進めることができたからにほかなりません。

完成、改修、その後

小田井用水が完成したことにより、1046町歩(約1035ha)の水田が新たに開発されました。それだけの水田を潤し続けるため、小田井用水は完成後も度重なる改修を行うこととなります。 河岸段丘の複雑な地形をクリアするために用いられた通水橋は、もともと木製の掛か け樋ひで作られていたが、大正時代にレンガ・石張り造りのアーチ橋に改修されました。龍之渡井や小庭谷川渡井などの通水橋は今でもその姿をとどめており、紀の川の水を運び続けています。 また、紀伊半島一の大河・紀の川から水を引いているため、水害に見舞われることもありました。

紀の国の「農」を支える

小田井用水現在、小田井用水が潤す水田は約600ha。精密な設計図をもとに開削された水路は、何度も改修を重ねながら、今なお現役です。宝永の昔から、小田井用水は紀の国の「農」を支える大動脈であり続けています。      

小田井用水あれこれ

水平を図る道具

才蔵手製の水盛台(水準器)才蔵手製の水盛台(水準器) 真ん中の竹に水を入れて両方の竹から出る水を見て水平を定めました。 ※橋本市の杉村公園内にある郷土資料館に当時の道具が展示されています。 紀の川の水をはるか上流から引いてくるためには、用水の勾配をできるだけ水平に近づける必要がありました。そこで用いられたのが、大畑才蔵手製の水盛台です。水を使って水平を定めるもので、正確な測量の結果、水平に近い緩勾配の水路を実現することができました。

江戸の最先端技術

紀北地区の河岸段丘には中小河川による谷間が多く、水平に近い勾配の水路をその谷間に通すために、伏越(サイフォン)」や「渡井(通水橋)」が設けられました。伏越は、川床をくぐらせて通水する方法です。渡井は川の上を通すもので、当初は木製の掛樋が用いられました。特に穴伏川を通す「龍之渡井」は、橋脚のない21mの樋を渡す難工事でした。小田井用水には11カ所の通水橋と10カ所のサイフォンがあります。

文化財として

中田川水門 工事前

中田川水門 工事前

中田川水門 工事中

中田川水門 工事中

木積川渡井(1914年完成)

木積川渡井(1914年完成)

小庭谷川渡井 工事前

小庭谷川渡井 工事前

小庭谷川渡井 工事中

小庭谷川渡井 工事中

小庭谷川渡井 1909年完成

小庭谷川渡井 1909年完成

平成18年(2006)、龍之渡井(紀の川市西野山)をはじめ、中谷川水門(かつらぎ町中飯降)、小庭谷川渡井(同町笠田東)、木積川渡井(紀の川市西三谷、岩出市東坂本境界)の4施設が登録有形文化財に登録されました。県内の土木構造物としては初めてです。

水管理の難しさ

小田井用水は、3から5㎞で1m高低差という緩勾配、さらに、当初は土水路だったこともあり、漏水などで末端まで水が届かないこともありました。取水口の井堰も木と石でつくられたもので、洪水のたびに流され、復旧に骨を折りました。近代に入り、水路や通水橋は改修が加えられていきましたが、井堰が現在のような姿になったのは、昭和32年(1957)です。昭和28年(1953)の紀州大水害に伴う災害復旧事業によるもので、それからは井堰の位置は変わらず、用水のスタート地点として活躍を続けています。

「小田井」の歴史、次世代へ

せせらぎ公園

せせらぎ公園

せせらぎ公園

せせらぎ公園


小田井用水を次世代に伝えていこうと、最近ではその歴史や特徴について、子どもたちが学ぶ機会が多くなっています。 小田井用水を開削した大畑才蔵と井澤弥惣兵衛の物語は、浜口梧陵、華岡青洲らとともに和歌山県の小学校3・4年生社会科副読本で紹介されています。龍之渡井や頭首工(取水口)への遠足や見学も多く、地元の偉人や技術について直接目で見て学ぶことができると好評を得ています。 このほか、小田井用水を新たなかたちで活用しようという取り組みも進められています。橋本市高野口町では、小田井用水の一区画が歩行者用の公園として整備され、「せせらぎ公園」の名で住民に親しまれています。

「大畑才蔵」

粉河寺境内の「彰功乃碑」。 大正14年建立

粉河寺境内の「彰功乃碑」。

大正14年建立


寛永19年(1642)~享保5年(1720)伊都郡学文路村(現橋本市)生まれ 学文路村の農家に生まれ、父の後を継いで庄屋となり、元禄9年(1696)、紀州藩の役人であった井澤弥惣兵衛為永により工事担当に役人に取り立てられました。 この年から藤崎井用水の開削に取り組み、宝永4年(1707)には小田井用水を開削しました。 「才蔵日記」や、「水盛帳」「地方聞書」などの資料によると、役人としての才蔵は、計算に強く、農政事務にも優れた実務家だったようです。 そして、彼の願いは、少しでも農民の暮らしが楽になることでした。

 

小田井土地改良区概要説明

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