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大畑才蔵翁彰功之碑 & 才蔵堀

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大畑才蔵翁彰功之碑

 

彰功乃碑

大畑才蔵は、小田井、藤崎井を造り、橋本市から和歌山市の間に広がる水田地帯を開発した江戸時代の先人であり、農民のために献身したことから、その遺徳を讃えるため「彰功之碑」が大正14年に粉河寺境内に建立されました。以来10年ごとに、小田井、藤崎井の関係者が集まり、頌功祭が営まれています。

 

(原文)

碑之功彰翁蔵才畑大

和歌山県知事従四位勲三等長谷川久一題額

紀北ノ地長渠十里二条竝行シテ西ニ走ルアリ一ヲ小田井トイヒ一ヲ藤崎井トナス伊都那賀海草三郡ノ沃野田ヲ以テ潤ヲ受ケ十万ノ蒼生由テ以テ沢ニ浴ス是レ両ナガラ大畑才蔵翁ノ開鑿セシ所ニ係ル翁諱ハ勝善伊都郡学文路村ノ人正保三年ヲ以テ生ル遠祖ヲ甲斐源氏武田三郎トナス七世次郎右衛門熊野ヨリ従テ此ニ住シ氏ヲ大畑ト改ム翁幼ニシテ算数ニ通シ長スルニ及ヒテ土木ニ精シ元禄九年三月紀藩ニ召サレテ司農ノ府ニ仕フ時ニ才五十五是ノ歳工ヲ藤崎ニ起シ後十有一年ニシテ宝永四年工ヲ小田ニ起セリ両井ノ開鑿ヤ固ヨリ藩主済民ノ志ニ出テタリト雖翁ノ如キ非凡ノ異材ナカリセハ誰カ復此ノ難事ニ當ルモノアラムヤ當時翁ハ暗夜燈光ヲ目標トシ木竹ヲ用イテ纔ニ測量ヲ遂ケ水路ヲイテ或ハ山麓ヲ迂回シ或ハ谿谷ヲ横断セシメ暗渠ヲ通シテ川底ヲ穿チ筧道ヲ架シテ川上ヲ踰ヱシムル等工事ノ至難ナリシコト今ニ至ルマテ世人ノ斎シク驚歎スル所タリ翁ノ力ヲ斯ノ種施設ニ至シ伎倆益著ハルルモノ其ノ他枚擧ニ遑アラス以テ正徳五年翁齢七十四ニシテ致仕スルニ至ルマテ鞠躬奉公復他意アルコトナク洪図偉績随所ニ発揮セラル翁ノ両井ヲ剏メタル以来二百数十年地方其ノ恵沢ニ霑ヒ功無窮ニ垂ルト雖世多クハ其ノ然ル所以ヲ知ラス今ニシテ顕彰ノ途ヲ講セシムルハ或ハ怕ル後世事蹟湮滅シテ口碑ニタモ上ラサルニ至ラムコトヲ是ヲ以テ大正十四年両井組合会ニ於テ翁ノ記念碑ヲ建テ以テ労績ヲ不朽ニ伝フルノ議アリ余ニ撰文ヲ嘱セラル余ノ両井ニ於ケル適々之カ管理者タルノ故ヲ以テ其ノ需ヲ拒ムコト能ハス乃チ概要ヲ記シテ之ヲ貞民ニ寿クスト云爾

  大正十四年十二月

和歌山県那賀郡長従七位 西本文四郎 撰弁書

 

(現在語訳)

大畑才蔵翁彰功之碑(おおはたさいぞうおうしょうこうのひ)

題字 和歌山県知事従四位勲三等 長谷川久一

紀北の地に長い水路が二筋平行してのびています。一つは小田井といい、もう一つは藤崎井といいます。伊都、那賀、海草の三郡の肥沃な田野は、この二つの水路の恩恵を受け、そして、又、十万の人々もこの水の恩恵を受けています。これは大畑才蔵が水路を開発したおかげです。大畑才蔵は名を勝善といい、伊都郡学文路村(現橋本市)で正保三年(一六四六)に生まれました。先祖は甲斐(現山梨県)の源氏武田三郎といわれ、七世の次郎右衛門が熊野からやってきてここに住み、氏を大畑と改めました。才蔵は小さい頃から算数が得意でした。大人になってから土木に精通し、元禄九年(一六九六)三月に紀州藩に召され農政に携わりました。才蔵が五十五才の時です。この年に工事を藤崎井から始め、十一年目の宝永四年(一七〇七)に小田井の工事を始めました。この二つの水路の開削は、もともと藩主が住民を救済するために行ったものです。才蔵のような非凡な才能をもった人がいなかったならば、誰がこの難工事を完成させられたでしょう。当時、才蔵は、夜には燈火を目標に木、竹を使ってやっとのことで測量しました。水路を山ぎわで迂回させ、又、谷川を横断させ、暗渠(トンネル)を掘って川底を通したり、川の上に渡井を掛けるなど、このうえなく困難な工事であったことは、今日においても人々のひとしく感心するところです。才蔵がこの二つの水路の敷設のために開発した技術は数えきれません、こうして正徳五年(一七一五)に七四才で藩の職をやめるまで、藩主のため誠心誠意仕え、大事業の成果をいたるところで残したのです。才蔵が二つの水路を開削して以来二百数十年、この地方は水路の恩恵を受け、又、才蔵の功績は極まりないけれども、世の人々の多くはそのいわれを知りません。今、顕彰をしようとしているのは、後世この才蔵の業績が滅び絶えて、人々の口伝えにも残らないことを心配するからです。こうしたことから、大正十四年(一九二五)この二つの水路の組合会で才蔵の記念碑を建立し、その苦労と業績を永遠にたたえようと決定され、私(西本)に文章をたくされました。たまたま私が両水路の管理者であるがため、これを拒むことができませんでした。そこで概要をしるして、永く、久しく人々に伝えようとするものです。

  大正十四年十二月

和歌山県那賀郡長従七位 西本文四郎 文章ならびに書

 

 

(注)碑文では大畑才蔵は正保三年(一六四六)生まれとなっていますが、後年、寛永十九年(一六四二)生まれと分かりました。また「夜には燈火を目標に・・・」とありますが、才蔵の残した資料には、そうした記録はありません。

 

才蔵堀

位置 和歌山県伊都郡かつらぎ町大字背の山438の1先
碑石 黒みかげ石 高1.9尺 巾6尺 厚6寸
台石 龍門石 崩積

 

由来之記

小田井用水路ハ宝永四年藩主吉宗済民ノ志ニヨリ学文路ノ人大畑才蔵之ヲかいさくセリ、背ノ山地区ハ特ニ難工事ナリシガ能クソノ工ヲナシ延長九里八丁伊、那両郡千百町歩ヲかんがいシ近代ニ至ル。

時移リ昭和三十六年県営、続テ昭和四十三年団体営ニテ大改修ヲ進ム其間背ノ山隧道ハ昭和四十年見事完成ス、カクテ旧水路ノ去就ニツキテハかつらぎ町ノ申出モアリ重議二年農免道路トシテ地域開発ニ役立ツコトトナレリ。

嗚呼「才蔵堀」今ヤ消ユ我等風光明媚ノコノ地ニ「才蔵堀跡」ト名付ケ碑ヲ建テ永ク遺徳ヲ顕彰セントスルモノナリ。

〒649-6531 和歌山県紀の川市粉河4620番地 TEL 0736-73-2173

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